【5月歌会の作品と鑑賞】
朧なる春の夜空の星たちは迷子となって満天星に咲く 宮野 小町
とても詩的でロマンチックな歌ではないでしょうか。春の雰囲気はたしかに朧と表現したいところ。それ は 春の夜空にうかぶ星にも共通する。その星達は作者に降ってきて、ベランダの満天星に定着した、という星をめぐって展開するポエジーに結実しました。
若者のやばいとめっちゃ江戸時代すでに使われ今後も変化 遊 心
なかなかユニークな視点からの短歌。短歌は言葉からできているから、その足元に光を当てることは納得できる。作者によると、やばいは「矢場(的)」、めっちゃは歌舞伎から発生したという。こう考えると、日常に使われている俗語も立派な由縁があるのは楽しいことである
金蛇さん石に浮かんだへび達はさいふを当てられ黒光する 智 絵
金蛇神社をはじめ、人々は神社に親しみを込めて「○○さん」、「○○さん」と呼ぶ。小難しい教義などは無用で、現世利益(げんせいりやく)
SNS毎日使えばそれだけでヴァーチャル世界に取り込まれゆく 朝野クウー
SNSによる誹謗中傷を苦にしての自殺がニュースになっているが、私の世代だとそんなのを気にするなんてと思ったのだが、よく考えてみると、直接的、間接的を問わず私も影響をうけていることに気づく。話が変わるが、新聞の購読者数が減り、テレビを見ない若者はめずらしくない。つまり、スマホだけが情報の入手手段である。それで、社会性が担保されるとは思われない。ネットSNSで知り合った若者間の事件が起こっているが、危険を察知する能力が欠如していると言える。
窓開けて夜更けの空を眺むれば流星ひとつわれに降りくる 森 てい子
作者は丘の家に住む。その家は平地から空を見上げるより、空が近くに感じることが想像できる。残念ながら流星はそれが暗くないと見ることがむずかしい。私の家は、高台にあるが、ベランダの向こうには煌々と光る高層ビル群が聳え立っている光景しか見えない。
色さびて辛夷の花の散りしける参道めぐる虚空蔵尊の 丹取 元
色さびての「さびて」は、さび・る【寂】は文法的には、さびれ、が正しいようだ。おとろえる、さびれる、すさぶの意。散りしけるは、「散る」と「敷く」の合わさった動詞で「敷ける」は散る(動詞)の連用形に接尾語的について、一面に散り
ゆくりなく飛行機の音の鳴りゆけりあゝ我はいま下総にゐる 梨本 卓也
ゆくりなくは、思いがけない、不意にの意味。上の句、下の句もいわゆる直接的な感情はうたっては
いない。代わりに「あゝ」の一語が効果を最大に発揮している。
美言にて褒めちぎりたる蕉翁の松島への本音如何にありしか 笹谷 逸郎
作者は奥の細道の「松島」について疑問を投げかけている。そこで「松島」に部分を取り上げてみたい。
抑々事ふりにたれど、松嶋扶桑第一の好風にして、をよそ洞庭・西湖を恥ず。(一) 東南より海を入れて江の中三里、浙江の潮をたゝふ。 嶋〱の数を尽くして欹(そばだつ)ものは天を指さし、ふすものは波に匐匍(はらばう)。あるは二重に重なり、三重に畳て、左に分かれ右につらなる。負るあり、抱るあり、児孫愛すがごとし。松のみどりこまやかに、枝葉汐風に吹きたはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。其気色睿然として美人の顔を粧ふ。(千早振神の昔、大山ずみのなせるわざにや。)造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽さむ。(二)
【訳】 傍線部
(一) いまさら松島のことを述べるのは言い古されているようだが松島はわが国第一の風景であって中国の洞庭湖や西湖に比べても決して劣ることはない。
(二) 松島の美しさは見る人をうっとりさせるような美しさで、美人がその顔に化粧したような趣がある。(中略) 自然を作り給う神の働きの、みごとさを、人間の誰が絵画や詩文に表現できよう、いやできるものではない。
■芭蕉紀行 嵐山光三郎 著 (抜粋)
「奥の細道」松島の文章から屏風絵のように立ち上がってくるではないか。なんと分厚いぶんたいだろうか。白河の関の描写には俳諧のしなやかなユーモアがあったのに対し、松島は漢詩文調である。「句が浮かばす眠ろうとしたが眠れない」と芭蕉は告白している。あまりに絶景のため句が生まれないというのである。それで、曽良の句として、
松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす
を書き留めたのであるが、これも芭蕉の句である。松島では、鶴の姿に身をかりて鳴きわたってくれ、ほととぎすよ、という呼びかけの句で、松に鶴は付合いである。松島では芭蕉は「嶋ゝや千ゝにくだけて夏の海」の句を得ており、これは島が幾千にも海にくだけ散っているという動きのある景観で、句もまた千ゝにくだ字けて散り、「松嶋や・・・・」の句よりこちらの方が雄渾である。にも拘わらずこの句を捨てたのは、松島の章では、意図的に地の文だけで読ませようとしたためと思われる。
『細道』は句文融合の歌仙形式をとり、松島では地の文だけで風景を立体化させようという気魄があった。句を詠めなかったという独白は地の文を主舞台にあげる仕掛けであり、「風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ」と言ってみせるのである
[鑑賞 朝野 クウー]
🔳次回歌会 令和7年 7月5日(土)
場所 仙台:青葉区中央市民センター
(場所など詳しくはお問合せ欄からお願いします)